よよぼう ~あの世とこの世の冒険譚

第1章「ゲーム部を目指して」


◇0 プロローグ 

 

 ついに君たちは最後の試練を乗り越えて、迷宮最深部の謎の扉の前に辿りついた。薄暗くじめじめとしたまさに陰湿な広間に、時折響く何処かで水滴の滴り落ちる音だけが静寂を際立たせていた。 

 

 仲間たちの熱い視線が見守る中、ゆっくりと歩みだした君は、慎重にその扉の開錠を試みる。 

 

 鍵穴に刺した細い金属棒の感触を確かめるように、研ぎ澄ませた全身の神経を集中させて、僅かに指先を動かしていく。 

 

 仲間の中で最も手先が器用である君は、もちろん相応の経験を積んできたし、自信とプライドも持ち合わせていた。 

 

 ―大丈夫、今回も上手くやれる― 

 

 やがて微かな音とともに、確かな手応えが指先に伝わった。 

 

 君は振り返りながら静かにこくりと頷く。仲間たちが息をのむ気配が、静寂の空間に広がっていった。 

 

 しかし次の瞬間、何もない静寂の空間の闇の片隅から染み出るように、いくつもの黒い影が現れ、あっという間に君たちを取り囲んでしまった。 

 

 静寂を破る高笑いが、遥か君たちの頭上から降り注いだ。 

 

 「あっはっはっ! これはまた面白い真似をしてくれる。まさかこれほど容易く罠に嵌ろうとはな!」 

 

 「何ぃ!」 

 

 リーダー格の剣士が間髪を入れずに反応する。 

 

 「それでは見せて貰うとしようか、その若き命の灯が消えゆく様をな。あっはっはっ、はっは…げふんげふん、ちょっと待っ…」 

 

 

 

 

 

 涙目でむせ返っているのは、もちろん悪魔でも魔王でもなく、何処にでもいるようなごく普通の女の子だった。 

 

 「ちょっと詩音、落ち着け落ち着け。大丈夫? ほれ、ゆっくりお茶飲んで深呼吸だよ…」 

 

 そう促すのも、同じ制服姿の女の子。彼女はお茶のペットボトルを差し出しながら心配半分の視線を向ける。 

 

 当然だが、彼女たちのいるこの場所も、魔王の潜む迷宮の最深部などとは程遠い、ごくありふれた学校の一室のようだ。教室にしては些か狭い気もするが。 

 

 ざっと目につくのは、整然と並んだ大きな会議用の白机と、同じく申し訳程度の座り心地の車輪付き椅子が数脚。開放的な明るい窓と、そして僅かな彩りをもたらす女子中学生が三人。 

 

 「しかし、あんたってば普段は目立たず影薄いのに、ゲームになると大胆というか、弾けるよねぇ」 

 

 もう一人、別の女の子がけらけらと笑う。声の感じは先ほどの剣士のようだ。 

 

 「けほっ、酷いよ、夢莉。私だって好きで影薄いわけじゃないよ!」 

 

 詩音と呼ばれた女の子が、ようやく落ち着きを取り戻して そう涙目で反論するが、きっと思い当たる節があるのだろう。何処か否定の言葉に力がない。 

 

 「そうかなぁ? 今日も佐伯の授業中ずっとちっこくなって俯いてたって話じゃない?」 

 

 佐伯というのは、この中学校に今年から新たに赴任した国語教師にして、詩音と彩乃のクラス担任…ではあるのだが、恋する詩音からすれば、ある意味、魔王以上に厄介な難敵だった。 

 

 「そ、そ、そんなこと…ないよ、ちょっと彩乃ぉ!」 

 

 痛いところを突かれた詩音は、しどろもどろで夢莉に反撃を試みながら、慌てて矛先を逸らすも、話を振られた彩乃は小さく舌を出しただけでやり過ごす。 

 

 そもそも詩音の授業中の様子を隣のクラスの夢莉が知りえるはずがない。詩音の様子を逐一知りえる立場といえば、同じクラス、しかも隣の席の彩乃であろう。本人に聞き質すまでもなく、話の出処は明らかというものだ。 

 

 「佐伯センセの視線って、詩音にとっては魔王のチャームよりも、めちゃめちゃ眩惑効果が高そうだしね」 

 

 彩乃の揶揄うような言葉に、むーっと抗議の視線を返す詩音だが、図星だけに何も言い返せない。 

 

 「いっそ魔王佐伯の軍門に下ってしまうのはどうだ、貴様にも悪い話ではないだろう?」 

 

 未だ剣士の趣の冷めやらぬ夢莉の魅惑的な提案に、一瞬唆されそうになる詩音だったが、自分自身に言い聞かせるように否定の言葉を紡ぐ。 

 

 「先生は魔王じゃないし! そもそも軍門に下るってどういうことよ?」 

 

 「え、毎日こっそりあんなコトやこんなコトとかしたり? 授業中に二人きりの異空間を発生させたり?」 

 

 無駄に想像力が豊かなのはゲームをする上では重要だが、この手の話題においてはまさに諸刃の剣だ。彩乃の言葉に反応して、詩音の顔が自分でもわかるように真っ赤に染まってゆく。 

 

 「ちょっ…私たちまだ中二だよ?」 

 

 詩音がどうにか反撃を試みようとしたその瞬間、ノックの音ももどかしく、豪快に部屋の扉が開け放たれる。 

 

 「ちょっとあなたたち、またなの? 少しは他の人のことも考えて静かになさい!」 

 

 扉の前で仁王立ちになっている威厳に満ちた女子生徒は、良く通る澄んだ声音でそう言い放つと、詩音たち三人の顔を一望する。 

 

 「…す、すみません」 

 

 消え入りそうな声で詩音が申し訳なさそうに謝罪の言葉を口にすると、上級生らしいその女子生徒は大きく溜息をついた。 

 

 「いい加減に学習なさいな。この研修室は曲がりなりにも図書館の一部なんですから、もう少し静かに利用できないものかしら? 他の人の迷惑にならないように。それと、持ち込んだ飲食物は忘れずに持ち帰るように、ね」 

 

 一通り言いたいことだけを言うと、詩音たちの返答も待たずに、くるりと踵を返して悠然と立ち去る。その後ろ姿は颯爽としていて、言葉をかけることさえ躊躇いを覚えた。 

 

 その上級生の後ろ姿が見えなくなった頃、ようやく緊張の糸が切れたように彩乃が口を開いた。 

 

 「ふぁーこわこわ。ボク、やっぱり樟葉先輩、苦手だなぁ…」 

 

 恐怖から解放されたかのように、彩乃はほっと安心の表情を浮かべる。夢莉もそんな彩乃に同調した。 

 

 「ほんとにあんた中三か?って感じの迫力だよね。まぁ、研修室で騒いでるあたしらが悪いっちゃ悪いんだけどさ。もう、さすがというか、なんというか。『鋼鉄の冷嬢』って二つ名も伊達じゃないって感じ?」 

 

 「鋼鉄の冷嬢…」 

 

 詩音が噛みしめるようにその言葉を呟くと、その制服の袖口を彩乃が引っ張った。 

 

 「続きはどうするの、詩音?」 

 

 先ほどの冒険譚は確かにまだ道半ばだ。むしろ、これからがクライマックスといってもよかった。だが、一度機を逸してしまうとなかなか同じ雰囲気にもっていくのは難しい。 

 

 「お開き、って感じかな…」 

 

 否定の意を込めて掌をひらひらさせている詩音の心境を察して、夢莉が代わりに口にする。 

 

 大きなガラス窓を開け、研修室の部屋全体の空気を入れ替えると、詩音は窓にもたれながらぼんやりと外の様子を眺める。 

 

 眼下の校庭では、何人かの陸上部の短パン姿の生徒たちが、黙々と練習を繰り返している。 

 

 光る汗の煌めきなんてこの場から窺い知ることはできないが、詩音にはその光景が何処か眩しく、そしてまた羨ましくもあった。 

 

 「部活かぁ、部室があればなぁ。もっと人増やせるのになぁ」 

 

 自然に漏れる詩音の呟きに、彩乃と夢莉も反応する。 

 

 「確かに、ボクも安住の地は欲しいかも、だね」 

 

 「でも、部室云々の前に、肝心の顧問を探さないと、だろ? 第一、あたしらだけじゃ頭数が足りてないんじゃないか?」 

 

 無邪気な彩乃の同意に、夢莉の辛辣な一言が容赦なく突き刺さる。 

 

 「まずはそこからかぁ、先は長いよねぇ」 

 

 ひと際大きな溜め息をつきながら、詩音はそう弱音を漏らした。  

 

 「はーい、ボクは佐伯センセが顧問でいいと思いまーす」 

 

 「彩乃…あんたって、やっぱり馬鹿だろ?」 

 

 唐突な彩乃の提案を、夢莉が一刀両断で斬り捨てる。 

 

 「大丈夫大丈夫、ボクに任せて」 

 

 「はぁ…」 

 


◆1 白岡彩乃 

 

 彩乃の根拠なき自信の発端は、数日前の夕刻に遡る。 

 

 いつもと同じように学校から帰宅した彩乃は、両親の経営するホビーショップの店番を任されていた。 

 

 ホビーショップなどと洒落こんではいるが、傍から見ればおもちゃ屋の延長線のようなもので、さほど多くもない来客も、そのほぼすべてが近所の子供たちと学生たちだった。彩乃のような年頃の女の子にとっては、どちらかといえば縁遠い存在ではあった。 

 

 そんな環境で育った彩乃は、幼少期からずっと、ゲームだのプラモデルだのブロックだのラジコンだの…といったものに囲まれて育ってきた。 

 

 もしも彩乃が男の子だったなら、それはさぞかし天国な環境なのだろうと思うが、あいにく彩乃は女の子である。全然興味がないのかと問われれば、皆無とまでは断言できないが、とりたてて積極的な興味を持つこともなく、さほど心惹かれるものでもない。 

 

 それでも家業であるからには、切っても切れない何かの縁があるのだろう。人生何がどう転ぶかわからないものだ。 

 

 その日は特に何か新製品の予約や人気商品の入荷があるわけでもなく、店内はいつにも増して閑散としていた。 

 

 物静かな店内に流れるのは、既に何百回となく繰り返されたロボットアニメの主題歌コレクション。エンドレスに垂れ流されているおかげで、一度も番組を見たこともないのにカラオケで歌えるかもしれないレベルに、彩乃の頭にこびりついてしまっていた。 

 

 あまりの暇加減に、レジカウンターの踏み台を兼ねた折り畳み木製椅子から立ち上がり、ハイテンションな主題歌をノリノリで披露し始めた頃、突然、店の出入り口が開くチャイムが鳴る。 

 

 「うぇあ、あー、いらっしゃ…」 

 

 誰かに聞かれてしまったかもしれないという恥ずかしさも手伝って、恐る恐る彩乃が視線を出入り口に向けると、そこには予想外の人物が立っていた。 

 

 「さ、佐伯センセ?」 

 

 「白岡? 何、バイト?」 

 

 お互いの存在が違和感しかないというか、この状況がうまく呑み込めないというか、理解するのに少々時間がかかるのは致し方あるまい。 

 

 それにしても、よりにもよって担任教師の前でソロライブとは、何たる羞恥プレイなのだろう。 

 

 「中学生のバイトは禁止…」 

 

 第一声がそれなのか、と些か呆れ顔で彩乃は否定する。 

 

 「何か心配事とか、そう、お金が必要な事情なら、先生で良ければ相談に乗るから」 

 

 「いやいや、ここボ…私の家なんで」 

 

 担任教師として個人的な心配をしてもらえるのはありがたいが、早合点というか飛躍しすぎというか、もうちょっと冷静に物事を判断してほしいと、彩乃は思う。 

 

 「あー、佐伯センセはこの春からだから、たぶん初耳だったかも?ですよね。この店、地元のクソガキどもにはそれなりに人気なんですよ、それなりに」 

 

 佐伯先生はうちの中学に赴任してまだ一年目の新顔だ。もっとも他校ではそれなりに実績があるだろうから、新卒新任というわけではないが、当然いろいろと知らない地域や生徒の詳細も多いだろう。 

 

 「知らなかった。まさか受け持ちクラスの生徒の家だったとは…」 

 

 「もしお金に困ってたら、稼ぎのいい怪しいバイトを紹介したのに、とか?」 

 

 大人を揶揄うように、彩乃は少し舌を出す。 

 

 「あいにくその手の店は縁がないんだ。そもそもそんな怪しい店で、白岡みたいな女子中学生が働いていたら、それこそ大問題だろう…」 

 

 「あははは、まぁそれはそうかも。だけど、ボ…私もどっちかというと男子の人気はイマイチみたいなんで、男の人の需要はそれほどないかもですね…」 

 

 自虐的にそう言ってみたものの、多感な年頃の彩乃にとっては、相応に深刻な悩みでもあった。 

 

 男の子と仲が良いということと、男の子に好かれているというのは、似て非なるものである。 

 

 もし、彩乃が以前と同じままだったなら、さほど深く考えずにさらりと流していたそんな感覚も、最近はそれなりに気になるようになってきていた。 

 

 それが思春期ってものだ、と何となく漠然とそう感じてはいるものの、彩乃自身が何か特に変わったわけでもなく、周囲の環境にも取り立てて大きな変化があったわけでもない。 

 

 カラフルな普段着でランドセルを背負い街じゅう狭しと駆けずり回っていた子供が、洒落た制服と学生鞄の似合う朗らかな少女に変身を遂げたという、たったそれだけのことでしかないはずなのに、一巡りの四季が過ぎようとする頃には、クラスの皆が皆、まるで忘れていた何かを思い出したかのようにそわそわと、よくわからないものを語り、求め、経験していく。 

 

 表面上は我関せずを貫いていた彩乃だったが、正体不明の焦燥感は次第に周囲へと伝染し、身の周りの詩音や夢莉も徐々に何かを感じ取っているようだった。 

 

 たぶん焦っているわけじゃない、と彩乃は思う。それでも親友たちに置いていかれたくはない、とも感じている。かといって、何かに積極的に向き合おうという意欲と覚悟も足りていない。 

 

 それは、いまさら過ぎる後悔の念がもたらした彩乃の心の傷が、やっとかさぶたになってきたという証なのかもしれない。 

 

 「いや、白岡だって男子に人気あるだろ。活発で愛嬌あるし」 

 

 そんな言葉がすんなり出てくるなんて、意外と佐伯先生はしっかり各々の生徒を見ているのだと、彩乃は少し感心した。 

 

 「お世辞でも嬉しいですが、そういうの世間一般には、猪突猛進で大雑把っていうんですよ」 

 

 「あぁ、確かに…」 

 

 そこは否定しないのか、と心の中でツッコミつつ、それも佐伯先生らしいな、などと彩乃は思う。 

 

 「で、今日は何を?」 

 

 営業スマイルに戻った彩乃が、ようやく本来の業務に復帰する。 

 

 「頼んでいた本が届いたって連絡が…これが注文の控えで…」 

 

 「はい、少々お待ちくださいね」 

 

 佐伯先生に手渡された伝票を頼りに、レジカウンター後方の棚を物色する。商品の注文や予約が殺到するほど繁盛している店でもないし、すぐに探し出すことができるだろう。 

 

 「この前の店員さんは、白岡のお兄さん?」 

 

 「あぁ、謙ちゃ…鷹取さんは親戚の学生さんで、従兄?ってやつですね。もうじき来ますよ」 

 

 今回の佐伯先生の予約を受け付けたのは、この店のアルバイトの大学生、鷹取謙佑だった。親戚の彩乃がいうのもあれだが、わりと今風のさっぱりした、いわゆるイケメンというやつである。 

 

 「鷹取さんが、何か?」 

 

 「あぁ、なんか、イケメンな店員さんだな、と」 

 

 ―もしかしたら、佐伯センセって― 

 

 ここ最近、学校内で広がりつつあるひとつの噂がある。 

 

 佐伯先生が自宅に不特定多数の若い男性を引っ張り込んでいるというもので、一説では女性に興味がない、いわゆるそっち系の人だという話なのだ。信憑性のある目撃証言も幾つかあり、完全な眉唾ともいえない状況だった。 

 

 別に中学校教師という立場なら、何かの質問や相談をしに訪れる生徒がいても不思議ではない。だが、肝心の中学生の姿はおろか、一人として女性が訪れる様子もないとなれば、要らぬ想像を生んでしまうのも無理はない。 

 

 もし仮にそれが事実なら、詩音の初恋は宣戦布告の前に敗戦確定の状況だし、今後の国語の授業は詩音には針の筵、精気のなくなった無残な屍を見続けなくてはいけない。隣の席の彩乃にとっても、全く関係のない話ではなかった。 

 

 ―やっぱり初恋は実らないのかな― 

 

 妙な空気が流れる不思議な時間が過ぎ、やがて彩乃は目的のものを探し当てることができた。 

 

 「はい、これですね、間違いないですか? って、これ…」 

 

 レジカウンターの佐伯先生に向き直りつつ、紙袋から取り出した数冊の予約品をテーブルに並べ始めた彩乃は、途中で言葉に詰まってしまう。 

 

 小刻みに震えだした彩乃は全身が冷たくなって、まったく力が入らない。視界の端が薄暗く色褪せ、ぼんやりと涙で歪んでしまう。 

 

 彩乃は過去に一度、数か月前にその状況を体験していた。 

 

 そう、すべてが始まり、そしてすべてが始まる前に終わってしまったあの時に…。 

 

 「白岡?」 

 

 「なんで、この本…佐伯センセが、どうして」 

 

 ―やっぱり初恋っていうのは― 

 

 

 

 

 

 それからの彩乃の記憶は相当あやふやだった。 

 

 佐伯先生に支えられ、レジカウンターの折り畳み木製椅子に腰を下ろし、ぽつりぽつりと幾つか昔のことも話したが、彩乃自身が伝えたいと思っていたより、さらに輪をかけて支離滅裂な内容だと感じた。 

 

 「もう大丈夫です、ありがとうございました。センセ…」 

 

 「ほんとに平気か? 無理はするなよ?」 

 

 彩乃はこくりと頷く。 

 

 「えーと、つまり、白岡の初恋の人が同じ本を予約したが、結局、本人に渡せなかった、と…」 

 

 「彩乃…でいいですよ、ガッコじゃないんだし…」 

 

 「え、いいのか? いくらなんでも、いきなりちょっと馴れ馴れしくないか?」 

 

 戸惑う佐伯先生の様子がちょっと可愛く思えて、彩乃は僅かに微笑んだ。 

 

 「まぁ、それもあって、なんかこれも不思議な縁っていうのかな。詩音たちと一緒にTRPGを始めて…」 

 

 「詩音…あ、西原か」 

 

 佐伯先生が受け持ち生徒のフルネームをしっかりと覚えていたのは、少し驚きだった。 

 

 「そう、その西原詩音と、あと隣のクラスの香坂夢莉。今のところはその三人だけですね」 

 

 「香坂って確か、新体操かなんかだろ、大丈夫なのか?」 

 

 「よく知ってますね…」 

 

 確かに夢莉は、学校内でも相当目立つ存在だった。 

 

 中二の女子にしてはそれなりに背も高いほうだし、男女問わずに分け隔てなく接する態度や、とりわけ一部の女子を熱狂させる独特な雰囲気の低い声。そしてさらに、体操部で惜し気もなく披露される、均整の取れたプロポーションのレオタード姿とくれば、男子の反応も悪いわけがない。 

 

 そう考えると、どうしてアンチ夢莉派の生徒が殆どいないのかも、何となく察することができた。 

 

 「あ、でも、新体操じゃなくて体操部、平均台とか平行棒とかですね。今はちょっと怪我があって療養中なんですよ」 

 

 「なるほどな…あぁ、それでなのか。研修室が騒がしいから早く何とかしてくれ!と、神楽の気が立って毎度苛々しているのは、そういった事情か。ようやくこっちにも話が見えてきたな」 

 

 神楽というのは樟葉先輩のことで、この辺りでは珍しく、古くから続く由緒正しき名家の家系らしい。樟葉先輩の立ち振る舞いを見ても、あぁそうかとすんなり納得できるのが何ともいえない。 

 

 たぶん樟葉先輩が図書委員だから、きっと国語の佐伯先生とも話す機会が多いのだろう。しかし、それほどまでに彩乃たちが煙たがられていたとは。 

 

 「でも、佐伯センセが実はTRPGに興味があったなんて、全然予想してなかったですよ」 

 

 彩乃がそう言うと、佐伯先生は小さく首を振って否定する。 

 

 『違う、TRPGじゃない、RPGだ!』  

 

 この言葉を予想していた彩乃は、相手の言葉に合わせるように同じセリフを重ねた。 

 

 「なんだ、彩乃、知ってるのか…」 

 

 何処となくがっかりした様子の佐伯先生に向けて、彩乃は小さく胸を張る。  

 

 彩乃は過去に二度、二人の人物からこの言葉を聞いていた。一人はアルバイトの謙佑、そしてもう一人は、あの…。 

 

 「まぁそのうち、彩乃たちと一緒に何かできるといいかもな」 

 

 なんということだろう。これはまさに千載一遇、願ってもないチャンスの到来だ。彩乃自身はもちろん、きっと詩音が聞いたら小躍りして浮かれ騒ぐのが目に浮かぶ。 

 

 「それなら、ぜひ…」 

 

 と彩乃が言いかけた瞬間、店の出入り口が開くチャイムが鳴った。 

 

 「あ、お帰りなさい、謙ちゃん!」 

 


◇2 帰り道 

 

 いつもと同じ放課後の帰り道を、いつもと同じ顔ぶれで歩く。 

 

 当たり前のたったそれだけのことが、なんとなく楽しく嬉しいのは、この年頃の誰もが経験する、不思議な、それでいて恐らくとても貴重な体験なのだろう。 

 

 「…というわけで、あともうひと押し!って感じかなぁ」 

 

 彩乃が一連の騒動を、大事な部分をはぐらかしながら、掻い摘んで語り終える頃、三人は学校最寄りの駅前広場に辿りついていた。ここからは立ち話という名のエンドレスなロスタイムに突入するのが、この年頃のお約束というものだ。 

 

 「でも、噂によると、佐伯は女にまったく興味がない、って話なんだろう? まぁ、水野みたいに見境のないスケベ教師よりはマシかもだけど、攻略するならそっちのほうがよっぽど楽だしなぁ…」 

 

 「噂…」 

 

 「そのことなんだけど、たぶん誤解だと思うよ」 

 

 不安げな詩音の表情を察したのか、彩乃が自身の推測を交えて意見を述べる。 

 

 一通り彩乃が話し終えると、夢莉がその要旨をまとめ上げる。 

 

 「えー、つまり、佐伯はゲームが趣味で、自宅に男連中をとっかえひっかえ引っ張り込んでたってのは、仲間たちとゲームをするためで、週末は朝までお楽しみだった、ってわけか」 

 

 「ちょっ、言い方ってものが…」 

 

 要点だけを的確にまとめた夢莉のストレートな発言に、詩音が動揺する。 

 

 「とにかく、佐伯をゲーム部の顧問として引っ張り込めば、すべての問題が一挙に解決する、ってことになるわなぁ…」 

 

 「そうそう」 

 

 「そんな上手くいくのかなぁ。それに、きっと迷惑じゃないかなぁ」 

 

 積極的に悪巧みを計画する彩乃と夢莉とは対照的な、あからさまに消極的な詩音の様子が手に取るようにわかる。 

 

 「何言ってんのさ、あんただって満更でもないくせに」 

 

 あくまで強気な夢莉の勢いに、流されまいと懸命に抵抗してみせる詩音ではあったが、所詮は二対一、圧倒的に不利な情勢だ。 

 

 というより、きっと詩音の心には打算的な思いがあったのだろう。 

 

 ことがうまく運んでくれたら何よりで、ゲーム部の問題はもちろん、個人的な恋も少しばかり進展するかもしれない、という淡い期待が持てるのである。 

 

 また、作戦が失敗に終わり、佐伯先生に顧問を断られたとしても、詩音自身が反対していたという事実さえあれば、どうにか自分に対しての言い訳が立つような気がした。 

 

 「あーんっ! だから、もう!」 

 

 よほど揶揄い甲斐があるのだろう。詩音の絵に描いたような狼狽えぶりに、二人は暖かくも残酷な微笑みを浮かべるばかりだ。 

 

 「さぁ、勇者詩音よ、覚悟を決めるのだ…」 

 

 「ゲーム部のことはともかく、ボクは詩音の恋を応援したいよ」 

 

 恐るべき圧力の前に、詩音の空しい抵抗が続くわけもなかった。 

 

 「あー、わかったわよ! もう二人の思うようにしてよ!」 

 

 詩音は半泣きでそう言うと、二人は小さくガッツポーズをしてみせた。 

 

 「それじゃ、ボク、明日の放課後、さっそくセッティングするね。いつもの研修室に集合で…」 

 

 「…ということで、明日までに佐伯の口説き文句を考えておきなよ、ゲーム部長さん!」 

 

 ハイテンションな二人は、さらに満面の笑みを浮かべると、まじまじと詩音の顔を見つめる。 

 

 「はい? 私? え?」 

 

 「勇者詩音よ、ここは潔く、とっとと吶喊するしか道がないぞ?」 

 

 何度目かの剣士の言葉で、夢莉は唆すように囁く。 

 

 「はぁ? とっとととっかん…って、吶喊って何よ、どういう意味?」 

 

 聞きなれない単語に反応して、詩音が疑問とも反論ともつかない声を上げる。 

 

 「あぁ、突撃前に気合の雄叫びを上げつつ、一気呵成にそのままの勢いってやつで…」 

 

 彩乃がわかりやすく解説するが、夢莉はそれをさらなる一言で上書きする。 

 

 「バンザイ突撃…」  

 

 「それって、結局、玉砕ってことじゃない!」 

 

 ひと際大きな声を上げて詩音が拒否する。 

 

 「それにしても、いったい佐伯の何処が良いんだかねぇ…」 

 

 詩音の狼狽えっぷりを堪能するように、夢莉はそんな疑問を投げかける。 

 

 「えっ? 何処が…って、そりゃあ、いろいろと…」 

 

 

 

 

 

 駅前で詩音たちと別れた夢莉は、駅のホームで次の列車が来るのを待っていた。 

 

 この街自体が、都会とも田舎とも言い難い微妙な位置にあるおかげで、待たずに乗れるほどではないが、散々待たされるということもない。むしろ、それなりの本数の優等列車が停まってくれるだけ恵まれてはいるのだろう。 

 

 ホームには夢莉と同じ制服の生徒たち。もちろん男子生徒の姿もあるが、どういうわけか騒がしいのは殆ど女子のほうである。 

 

 幼児を連れた買い物帰りの母親や、病院通いのお年寄り、ランドセルを背負った小学生、スマホ片手に商談するスーツ姿の青年、そう、ここには様々な人が集っていた。 

 

 ホームの先頭部分、ちょうど列車の一両目が停まる位置に立って、夢莉はぼんやりとその光景を眺めていた。 

 

 「よぉ、夢莉、今帰りか? 随分遅ぇなぁ」 

 

 いつの間にかすぐ近くに歩み寄ってきていた男子生徒が夢莉に声をかける。 

 

 「馴れ馴れしく呼ぶな、って言ってるでしょ、涼太!」 

 

 この涼太は夢莉にとって、詩音と同じく幼馴染みの間柄だ。幼稚園に通う以前から、そう、まさに物心がついた頃からずっと一緒の、気の置けない関係である。 

 

 中学二年の今となっても、同じ学校の同じクラスの隣の席、おまけに家までお向かいさんともなれば、これは腐れ縁以外の何物でもない。 

 

 「まぁ、エンドレス移動相談室、って感じよ。別に今に始まったことじゃないんだけど」 

 

 「あー詩音のやつかぁ…。あいつ、国語の佐伯に惚れてるって話だろ? 大丈夫なのかね」 

 

 「そんなに心配なら、直接本人に聞いてみなさいって。早くしないと手遅れになるかもしれないんだからね」 

 

 昔はよく三人で暴れまわったものだ。涼太がなんとなく詩音のことを気にするのも極めて自然な成り行きだろう。 

 

 「いや、俺が心配してるのは、お前のほうだし」 

 

 「はぁ?」 

 

 夢莉が大きな声で疑問を口にする。 

 

 「詩音のやつ、もう信じられんくらいとことん鈍いからなぁ…。自分のことさえ見えてないし、ましてや夢莉や周りの連中が何を考えてるかなんて、これっぽっちも…」 

 

 「それは、別に、いい…うん、いいんだよ」 

 

 涼太はさすがに鋭い。だから嫌いだ。それが夢莉の素直な感想だ。だから夢莉は反撃に打って出ることにした。 

 

 「ところで、あんたこそ、なんで帰宅部なのにこの時間なのよ?」 

 

 「まぁいわゆる、視聴覚室でビデオ鑑賞会、ってあれだ」 

 

 ぴくっと可愛く反応してしまった夢莉は、冷めた視線で涼太を睨みつつ、一段と低い声で曖昧な返事をする。 

 

 「そいつは良ぉござんした。新人の推し女優でも発掘したの?」 

 

 「いや、いるっちゃいるんだけど、なんつーか…」 

 

 妙に歯切れの悪い涼太の物言いに苛立ちを覚え、夢莉が追い打ちをかける。 

 

 「何なのよ? はっきりしないやつね…」 

 

 「俺としちゃ、やっぱり夢莉みたいな感じのだな…」 

 

 「あー、涼太は微妙に発展途上の未完成体形がお好みだと、そういうことね」 

 

 呆れたようにそう言いながら、夢莉は涼太を氷のような冷たい視線で見つめる。 

 

 「いや、そうじゃなくてだな…」 

 

 必死に弁解しようと試みる涼太を揶揄うように、さらに夢莉は畳みかけた。 

 

 「でも、未完成体形っていうなら詩音のほうが良いんじゃない? あたし、最近胸が目立ってきちゃったし…」 

 

 その夢莉の一言に吸い寄せられるように、自然と涼太の視線が夢莉の胸元へと誘われる。 

 

 「スケベ…」 

 

 「いや、おまっ、そりゃ、ぬぅぅ…」 

 

 顔を赤くして咄嗟に目を逸らす涼太の様子がおかしくて、夢莉の表情も緩んでしまう。 

 

 「あんた、昔からよく幼稚園の頃のアルバム見てたもんね。浮き輪から手足が生えたようなのばっか見てたら、そりゃ目覚めるってもんじゃない?」 

 

 「だから、違うって…」 

 

 けらけらと笑う夢莉の声に導かれるように、二人の目前にゆっくりと列車が滑りこんできた。 

 


◇3 西原詩音 

 

 ―どうしてこんなことになっちゃったんだろう― 

 

 かれこれ一時間近く、詩音はお風呂の湯に浸りながら考え込んでいた。 

 

 確かにいろいろと明日のことは、詩音にとってもチャンスではある。 

 

 佐伯先生と個人的に話ができれば、何か一歩でも前に進めるかもしれないという淡い期待と、もちろん本題のゲーム部の創設に関しても、顧問をお願いできれば願ったり叶ったりだ。 

 

 しかし、どうにもこうにも物事の展開がいきなり過ぎて、何処かあの二人にいいように乗せられたといえなくもない。 

 

 嬉しさ半分、悔しさ半分…というより、まさに詩音の心の殆どすべてが、不安に占められているといっても過言ではなかった。 

 

 湯の中で体を動かすたびに、水面に立った僅かな波音が詩音の耳に届く。 

 

 何度目かの溜息をつきながら、詩音はそっと目を閉じた。 

 

 

 

 

 

 すべては昨年、詩音の兄が亡くなったことに始まる。 

 

 念願の高校へと進学したばかりのごく普通の学生だった兄は、帰宅途中に巻き込まれた突然の交通事故によって、帰らぬ人になった。 

 

 あまりに唐突な出来事過ぎて、詩音たち遺された家族は茫然自失で対応に追われた。すべてが非現実的で、悪い夢を見ているようだった。 

 

 詩音の心にも何処かぽっかりと穴が開いてしまったようで、なんとなく違和感を覚える日常がしばらく続くことになった。 

 

 そんな詩音の生活にようやく転機が訪れたのは、今から数か月前、兄が亡くなってからも数か月が過ぎた頃のことだ。 

 

 いつもと同じように中学校から帰宅した詩音は、自宅の前で何処かそわそわと落ち着きがなく周囲の様子を伺っている、同じ制服姿の女子生徒を見かけた。 

 

 暫しの間を置いた後、詩音は思い切って女子生徒に声をかけると、ひぅっ、と声にならない驚きの叫びをあげて、彼女はまじまじと詩音の顔を見つめ返してきた。 

 

 それは同じクラスで隣の席の白岡彩乃だった。 

 

 「白岡さん? どうして…」 

 

 幾つかの疑問を詩音が口にするより早く、彩乃はぺこりとお辞儀をすると、脱兎のごとく逃走を始めた。 

 

 呆気にとられて取り残された詩音は、翌日の教室で、唐突に彩乃に声をかけられたのだった。 

 

 放課後に少し付き合ってほしい、というどうとでも解釈できる言い回しで、果たしてそれがどういう意味なのか、詩音の想像は斜め上に加速するばかりだった。 

 

 隣席のクラスメイトとはいえ、特にそれまで深く話す機会があったわけでもないし、もしかしたら何か気づかぬうちに、彼女に迷惑をかけるようなことをしてしまっていたのかもしれない。 

 

 不安に駆られた詩音が、昼休みに隣のクラスの幼馴染み、香坂夢莉を訪ねて相談すると、返ってきたのは「女同士でも、たまによくある」などという意味不明な言葉だけだった。 

 

 緊張のピークで放課後を迎えた詩音は、彩乃に促されるように一緒に下校しながら、その途中でいろいろと話をした。 

 

 詩音が杞憂していたような斜め上の展開には当然ならず、当たり障りのない自己紹介のような話題から始まって、彩乃は様々なことを話してくれた。 

 

 その中で詩音は、今まで知らずに過ごしてきた様々な事実を知ったのだった。 

 

 彩乃の家がホビーショップを経営していること。 

 

 詩音の兄が生前、頻繁にホビーショップを訪れていたこと。 

 

 注文したものが届くたびに、兄に連絡するのが彩乃の役目だったこと。 

 

 幾度かやり取りを重ねるうちに、次第に二人は仲良くなっていったこと。 

 

 だが突然、店のすぐ近くで交通事故が起きて、兄が巻き込まれたこと。 

 

 彩乃自身も目撃者の一人で、偶然その場に居合わせたこと。 

 

 そして… 

 

 兄が亡くなる数日前に、彩乃が最後の注文を受けていたこと。 

 

 それが先日になってようやく店に届いたこと。 

 

 すべてを聞き終えた頃には、詩音の頬に一筋の涙が伝い落ちていた。 

 

 まさかクラスメイトから兄のことを聞くことになろうとは、予想外の展開過ぎて彩乃の話についていくだけで精いっぱいだった。 

 

 今更の話でごめんなさい、と涙声でしゃくりあげる彩乃も、滲んだ涙が大きな瞳に溢れていた。 

 

 やっとのことで感謝の言葉を紡ぎつつ、詩音が彩乃をそっと抱きしめると、彩乃は堰を切ったようにぽろぽろと大粒の涙を零し始めた。 

 

 「大丈夫、わかるから、わかってるから、白岡さんの気持ち…」 

 

 その詩音の言葉がとどめになったのだろうか、彩乃は詩音の肩に顔を押し付けるように、わんわんと声をあげて泣き始めた。 

 

 駅へと続く通学路の途中で、制服姿の女の子が大声をあげて泣いているのだ。周囲の注目を一身に集めながら、それでも構わず彩乃は泣き続けた。 

 

 たぶんその時の彼女にはそうすることしかできなかったのだろう、と詩音は思う。 

 

 詩音はそっと彩乃の肩を支えるように、再びゆっくりと最寄り駅への道を歩み始めた。 

 

 ―そう、きっと私たちは立ち止まってちゃいけないんだ― 

 

 

 

 

 

 お風呂の湯に、まるで潜水艦のように口元を半分沈め、詩音はゆっくりと目を開ける。 

 

 だからきっとあれも運命の一部ってものなんだろう。 

 

 その後、彩乃とは親友と呼べる関係になったし、兄の代わりに詩音がホビーショップを訪れることも増えていった。 

 

 やがて、兄が最後に注文していたという例の本を足掛かりに、店員の謙佑さんという大学生にあれこれ尋ねながら、試行錯誤の手探りを繰り返し、なんとか漠然とRPGというものを理解した。 

 

 怪我の治療中だった夢莉を、これ幸いと半ば強引に巻き込んで、とりあえず三人でRPGのプレイを続けて今に至るというわけだ。 

 

 そう考えると、兄にももう少し感謝しなくちゃいけないのかもしれない、と詩音は思う。 

 

 「だからって、なんで私が部長なんて…」 

 

 半分水の中にいるのを忘れたまま、そう抗議の声を上げようとした詩音が、危ういところで溺れそうになる。 

 

 まぁ、考えればそうなるであろうことは、詩音にも理解はできる。いわゆる消去法というやつだ。 

 

 彩乃には大事な店番があるし、夢莉は怪我が治れば体操部に復帰することになるだろう。他に誰か目ぼしい部員勧誘の当てがない以上、詩音が部長を務めるのが妥当というものだ。 

 

 そもそも、部活として認められる最低人数の確保さえ怪しい現状で、部長に祭り上げられたとして、詩音にいったい何ができるのか。自分でも疑問に思う。 

 

 しかも、強引に顧問を押し付けようとしているのが、あの佐伯先生なのだ。 

 

 佐伯先生がゲーム好きっていうのはわかった、それは良しとしよう。 

 

 だからといって、「ゲームが好きなら当然、顧問になってくれますよね?」とはいかないだろう。物事はそんなに単純じゃないはずだ。 

 

 まぁ百歩譲って、部長は詩音で良いとする。顧問を依頼する役目も、まぁ良いだろう、そのくらいは引き受けてみせよう。 

 

 だが、肝心の交渉相手がよりにもよって、あの佐伯先生なのだ。 

 

 考えてみれば、この春から佐伯先生が赴任してきて、偶然か必然かクラスの担任になり、毎日のように顔を合わせてはいるものの、詩音の側から声をかけた覚えなどあっただろうか? 

 

 きっかけが何もなかったといえばその通りなのだが、では、今回のこれを突破口にして、詩音が積極的な一大反攻作戦に転じるのか、と聞かれれば、答えはイエスという状況にはほど遠い。 

 

 「さぁ、勇者詩音よ、覚悟を決めるのだ…」 

 

 夢莉の演じる剣士の声が、詩音の頭に響き渡る。 

 

 まぁ実際にファンタジーの世界で魔王討伐を任じられた勇者の心境なんて、こんなものなのかもしれない。 

 

 現実の世界だって、危険な戦場に派兵された兵士だったり、ヤバい会社の危ない仕事だったり、いろいろあるだろう。 

 

 それらに比べたら、別に命を落とすわけでもないし、手足の一本も失うわけでもない。今回の詩音に課せられた試練…とさえ呼べない何かは、そういう程度のものだと理解もしている。 

 

 「でも、やっぱり結局、魔王佐伯に行き着くわけだし…」 

 

 それは避けることのできない固定イベントだ。あとはこれが敗戦確定イベントでないことを祈るしかない。 

 

 詩音にとってはまさに正念場、明日は一大決戦である。誰が何と言おうと、詩音の将来を左右するかもしれない戦いになるのだ。 

 

 「えぇい! よし、もう考えるのはなしっ! 無心こそ必勝の計なり、ってことで…」 

 

 覚悟を決めたのか、思考を放棄したのか、はたまたすべてを諦めたのか、それとも運を天に任せることにしたのか。 

 

 詩音はざぶんと音を立てながら、勢い良く立ち上がると、湯船の中で小さくファイティングポーズを決めた。 

 

 浴室の鏡に映った自分に向けて、自らを鼓舞するように、詩音は大きく息を吸い込み胸を張る。 

 

 「やるぞー、やってやるぞー!」 

 

 浴室特有の効果的なエコーに強調されて、詩音の決意の雄叫びが抜群の響きを轟かせる。 

 

 未だ霞み続ける湯煙の中、堂々と胸を張り、両の拳を握りしめ、鏡に向かって固まっている全裸の女子中学生の姿が、そこにはあった。